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【映画】護られなかった者たちへ 見てきました

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今日は、母に誘われ、映画「護られなかった者たちへ」を見てきました。

コロナが流行してから外出が極端に少なくなっていたので、映画館に行くことも出かけることも久しぶりです。

開始時間を勘違いしており、あと数分で本編が始まってしまうというタイミングで映画館に到着。

元々この映画を見たがっていた母を先に入場させ、私は飲み物を購入してから入室したものの、照明が落とされた席って、あんなに真っ暗なんですね。

開始直後は夜の場面だったために、映像からの光もなく、足元も、イスの輪郭すらも見えない状態の中、飲み物2つを持って指定された席に行くのが、あんなに大変だと思いませんでした。いやあ失敗した……。

CMくらいしか知らない予備知識で行った

この映画は、中山七里の同名の小説「護られなかった者たちへ」を原作とする作品です。 東日本大震災生活保護という2つの重いテーマを中心に扱った刑事サスペンスといった内容でした。

役者さんたちの演技力がすごかった

予備知識なくこの映画を観ましたが、まず、役者さんの演技力に脱帽。

私は、そもそも邦画というものにあまり興味がなく、ファンタジーやSFばかりをスクリーンで見ています。戦う演技やCGでのダイナミックな映像が多いため、細かい心理状態を表現する必要がある映画は初めてでした。

身近な人をなくしたり、極限状態に置かれた人というのは、正直あまり良い顔色や表情をしているとは言えません。

顔は黄土色のようで、肌つやもなく、目ばかりギョロギョロとし、疲れ、やつれきった顔。それを表現する舞台メイクさんの力も凄いと感じましたし、姿勢の悪さや、落ち着かない様子などを、役者さんたちは表現しきっていました。

最も印象に残ったのは、役所の担当者を演じた永山瑛太さんでしょうか。

良い人そうでニコニコしているのに、まったく取り付く島がない。福祉の現実をよく知っているからこそ、本当は全員救えればいいと思っているのに、「すべての人を救うことはできない」と分かっている役人。どこか憎たらしい、どこか悲しい、そんな背景を見事に演じ切っていました。

どこで、どうやって撮影したのだろう

震災時の遠景があまりにリアルで、どうやって撮影したのだろうと思っていました。

最近は、CG技術がかなり進んでいるようですね。大河ドラマ「青天を突け」においても、登場人物たちが民家の室内で会話している「よくあるシーン」の、背景に映る庭や遠景などにCGが使用されているそうです。もはや、どこがCGで、どこがセットで、どこが本物か見分けがつかないほど。

理髪店付近の瓦礫の山など、あまりにもリアルでした。スタッフロールでは宮城の人たちの全面協力の元で撮影されていたようですが、資料などを元に再現されたのかもしれませんね。

映画の感想(ネタバレ含む)

世間の評判を見てみると、どうやら原作の小説から、大幅に変更している点があるようで、映画化にあたって、原作の良さを表現しきれていないために残念、という声が多い様子です。

さて、私は小説を読んでいないので、率直な感想を言うと、役者さんの演技力や、舞台の作りに感動したものの、ストーリーとしてはやや疑問が残りました。

この映画の全体のメッセージ「声をあげろ」

映画のラストでは、登場人物のひとりが、繰り返し「自分たちがいかに苦しいか、困っているかを「声をあげるんです」。声をあげれば、手を差し伸べてくれる人がいる」と何度も、何度も言います。

これが、この映画の言いたいことなのかなと、私は感じました。

この「声をあげろ」というメッセージ。本作品のテーマに集中してしまうと、生活困窮者だけに向けたものに思えますが、もしかしたら、政治に参加しない人や、全ての物事に対しての、作者が訴えたい主張なのかなと受け取りました。

しかし、この「声をあげろ」。なかなか難しいことだと思います。

多くの人は、声を上げたり、行動をする前に、あきらめてしまうことがほとんどです。なぜなら、現実を知っているからこそ「声をあげたってしかたないじゃん」と思うから。

私の家庭も、そのような「声をあげたってなににもならない」と思っていることが実際にあります。私自身、「声をあげろ」と両親に対して説得したこともあり、そのたびに激しく衝突しました。なので、その難しさに唸るしかありません。

その「声をあげたって、なににもならない」という諦めが、生活困窮者がよく口にする「人様に迷惑をかけたくない」「国の世話になりたくない」という言葉が出てくる、本当の理由なのではないかと思うのです。

しかし一方で、「それを乗り越えてほしい」と言う登場人物もまた切実です。戦う元気のない人たちに、戦えと言っているようなものだからです。

自分の窮状を訴えるには、とても大きなパワーが必要だと思います。声を上げない人たちのほとんどは、戦うことに疲れています。訴えるためのパワーがない。できれば、ただ穏やかにしていたい。

それでも、なにかと戦わなければ生きられないからこそ、「声をあげて」「乗り越えてほしい」と言うのでしょう。

映画の不満点

刑事2人の描写

よくあるバディ刑事モノのように、扱いづらい年上刑事と、それに困る年下刑事のやり取りが描かれていたのですが、本作品において、この2名の描写を細かくする必要はなかったのではと感じてしまいました。

部下である蓮田は始終キレていてイライラしており、上司である笘篠は、コミュニケーションが苦手なのか、配慮に欠ける部分がある。

また、物語のラスト、笘篠の息子について語られるシーンで、一気にチープさが増したように思います。海岸で会話する様子は、まるで昼間に再放送している連続サスペンスドラマのようで、気が抜けてしまいました。

東日本大震災生活保護を絡める意味

おそらくこの2つを絡める意味はなかったように思います。生活保護だけをテーマにすると、「震災はだれのせいでもないけど、これは人のせい」と言うことができないからだったのでしょうか。

重いテーマは簡単に感動を与える

最近、私は「重いテーマ」を扱うストーリーに対し、疑問を持つようになっています。

「重いテーマ」とは、たとえば、主人公の愛する人が重病であるという表現や、主人公に近しい登場人物が死ぬなどといった見せ方や、本作品のような社会的に重い話題です。

重いテーマ、シチュエーションは、簡単に人を感動させ、簡単に人にカタルシスを与えます。それを、エンターテイメントとして嗜んで本当に良いのかと思うのです。

ゲームや漫画などの場合、それは人を感動させる装置の一つであるとすぐに分かりますし、所詮ゲームだから・漫画だからと、フィクションを盾に言い訳にできてしまいます。

劇場版「鬼滅の刃・無限列車編」でも、重要な登場人物である煉獄さんが退場する描写がありますが、それはフィクションです。鬼と壮絶に戦う現実なんてどこにもありません。

ですが、それを乗り越える主人公たちの姿が描かれているのを見て、自分もなにか頑張ろうと勇気をもらう、というのは、あっても良いと思うのです。なぜならその人の死はフィクションだから。

しかし、本作品はどうなのでしょうか。確かにフィクションであることは、ゲームや漫画と一緒です。でも、本作品の扱うテーマはあまりに現実的です。

それを見て「考えさせられた」などと軽く言っていいのか、躊躇する自分がいます。

もしかして私へのメッセージだった?

はじめは、ストーリーに不満点が多く、それをブログにしたためてやろう、なんて思っていましたが、次第に、「この映画が見たい」と突然誘ってきた母について、なぜ誘ってきたのか書きながら考えるようになっていました。

私自身、あきらめていることが1つあるのです。最近それで深く悩み、思わず口をついて母にどうしようもない愚痴を言っていました。

そう考えると、この映画を見て考えるべきなのは、自分のことなのかも。つい作品の作りばかりに目が行ってしまうのは、私の悪いところかもしれません。